海の中は音の世界1
シロナガスクジラの遠距離通信とサウンドチャンネル
フランスの有名な海洋学者J.Y.クストー博士の著作を映画監督のルイ・マルが映画化したドキュメンタリー映画「沈黙の世界」(1958)というのがありました。この映画は,海底居住基地での生活を描き見事にカンヌ映画祭でグランプリを獲得しました。この映画の題名では,海の中の静けさを表す代名詞として,「沈黙」という言葉が使われていますが,実際には,決して海の中は,「沈黙の世界 」ではありません。
実は,音波は海中でもよく伝わります。そして、クジラやイルカなどの生物の鳴き声や波の砕ける音といった自然音、船が航行する音や観測装置からの人工音と、海のなかには様々な音があふれています。今回は、そんな海中の音の不思議を探ってみましょう。
クジラは海中で会話している!?
最近、各地でホエール・ウオッチングが盛んに行われています。クジラの群れを見つけたとき、船から水中マイク(ハイドロフォン)を海中に投げ入れると、クジラたちの声を聞くことができます。「ブォー、ブォー」、「ジジジジ・・・」、それは、まるで会話を楽しんでいるように聞こえます。なぜ、クジラたちは海中で音を使うのでしょうか。海のなかでは光が吸収されるため、わずか数十メートル先の物を見ることも困難になります。どんなに透明度の高いところでも、陸上のように遠くまで見通すことができません。でも、海中で発せられた音は、なかなか弱くならず遠くまで届きます。しかも、1秒間に約1,500mもの速度で伝わります。これは、陸上より4.5倍も速いのです。音を使って意志疎通することは、海中という環境で生き抜くためにクジラたちが獲得した能力と考えられています。たとえば、世界中の海域に広く分布しているシロナガスクジラ(Blue Whale、地球上で生息する生物のなかで最大。体長は25m以上、体重は100トン以上 注1)は、世界中の海に分布していますが、その巨体を維持するため毎日数トンもの餌を必要とします。そのために彼らは、夏の間大量に発生するオキアミや小魚を求めて南極や北極近海に集まります。そして、冬になると子供を産み育てるため赤道近くの暖かい海に戻る大移動を開始します。クジラたちは、広い海洋で仲間と再会するため、遠く数千kmを隔てて、お互いに通信をしているといわれています。
実は、クジラのコミュニケーションの研究が始まったのは、皮肉なことに1960年代から本格化した米ソ冷戦における軍拡競争がきっかけでした。冷戦時代、米国は敵の原子力潜水艦を探知するためソーサス(SOSUS)と呼ばれる水中マイク(ハイドロフォン)を多数ならべた装置(アレー)を様々な海域に設置しました。そのソーサスにシロナガスクジラの声が頻繁に受信されていました。最初は、敵のスクリュー音と間違えられたこともありましたが、冷戦が終わって、施設を研究者が利用できるようになり、それがクジラたちの声ということが分かり、研究が始まりました。その結果、彼らの声(歌声のようにも聞こえます)には、多くのパターンが規則的に何度も繰り返されており、いろいろなメッセージが含まれているのではと考えられるようになりました。
図1 シロナガスクジラの声のパターン例
図1は、シロナガスクジラの声のパターン例を示しています。横軸は発音している時間(秒)、縦軸は周波数(上ほど高音)を表しています。図のなかのパターンは、青から赤、さらに白になるにつれて声が大きくなっていることを示しています。この図から、シロナガスクジラは、ほぼ10から40ヘルツ(人の耳に聞こえるか聞こえないほどの低い周波数)に変化する1分近くにもわたるパターンを、ほぼ1分ごとに繰り返していることがわかります。
海中に音を遠くへ伝える層がある
驚くべきことに、ハワイの近海でとらえられた彼らの声のなかには、南極近くの海からやってきたものも混ざっていました。まさかと思われるかもしれませんが、実はこのような低い音波は、数千km以上も遠くまで届くことができるのです。この現象を説明するためには、海洋における深海サウンドチャンネルのことを理解していただかなければなりません。
図2 深海サウンドチャンネル
(クジラの声は深海サウンドチャンネルを伝わり、数百から数千キロ離れた仲間とのコミュニケーションに活用されるという。)
図2を見てください。ここでは、日本近海のような中緯度海域では、海面から深度が深くなるにつれ、水温が低くなるため音の速度が小さくなります(注2)。中緯度海域では、1,000m付近(ほぼ2°C)まで水温が下がり続けるため、音速は水深900〜1,000mで最小になります。これをチャンネルの軸といいます。さらに水深が深くなると、水温が一定のままで圧力が増加するため、音速が再び増加します。チャンネルの軸付近で発せられた音波は、音速が大きくなるにつれ少しずつ曲がる性質があります。この性質によって音波は、チャンネル軸を中心に上下に海底や海面に当たることなしに遠くまで伝わることができます。実は、シロナガスクジラの声のような低い周波数の音波は、海底や海面に当たるとエネルギーが奪われますが、水のなかだけを進むときは何千km先まで到達することができるのです。
ここで、クジラがチャンネル軸のある1,000mまで深く潜って音を出せるのだろうかという疑問が生じます。シロナガスクジラは200mくらいしか潜ることができません。しかし、このチャンネル軸は緯度が高くなるほど浅くなってきて、北極や南極に近い海域では海面付近になるのです。これは、極地方では、水温の変化が水面から深海までほとんど同じになるためにおこる現象です。そうすると南極近海の海面近くにいるクジラの発する声は、サウンドチャンネルのなかを通ってはるか遠くまで到達することができます。クジラの仲間(イルカやシャチも含む)は、水中の音を聞く能力がとても発達しています。彼らの耳の穴は水が入らないようにふさがれていて、人間のように直接鼓膜によって音を聞くことはできません。そのかわり、彼らは水中の音波を受信する効率的な方法を獲得しました。海水中を伝わってきた音波は、音波を透過しやすい皮膚を通して頭蓋骨を振動させます。そして、耳包骨と呼ばれる音を良く伝える骨によって、聴覚神経に直接伝えられます。しかも、彼らの発達した脳は、遠方から伝搬してくる微弱な仲間たちの音声パターンを認識していると考えられています。
これは、われわれが水中マイクで受信した音をコンピュータによって処理しているのと似ています。数十ヘルツの音波の場合、 島などの陸地があるとそれに沿って音波が伝搬するので、赤道付近のシロナガスクジラたちも島のそばにさえいれば,百mも潜れば、遠方の仲間とコミュニケーションをとることができると考えられます。しかし、もし3,000kmの距離を隔ててお互いにコミュニケーションをとるとなると、一方の呼びかけに対して仲間の返事が戻るのに4,000秒、すなわち1時間以上も待たなくてはなりません。クジラたちはわれわれ人間と異なる時間スケールで生活しているために、あまり気にしないのかもしれません。
人類がサウンドチャンネルの存在を知り、利用をはじめたのは、せいぜい60年ほど前の第二次世界大戦中です。近年、サウンドチャンネルを利用した海洋音響トモグラフィー観測などの研究が進められていますが、音波の遠距離伝搬現象に関しては、まだまだ分からないことがたくさんあり、各国で解明のための努力が続けられています。一方、シロナガスクジラは、数千万年も前からこのサウンドチャンネルを利用してきた音響コミュニケーションの大先輩です。音響の研究者のひとりとして、彼らの意見をぜひ聞いてみたいものです。
■注1 シロナガスクジラは、1965年以降完全に保護されていますが、それでも生息数は推定6千〜1万4千頭と少なく、絶滅が危惧されています。
■注2 音も波ですから、波の速度は振動が媒体(ここでは海水)を通って移動する割合ということができます。水の物理的な性質が空気と異なるので、通常、音の速度は空気(約340m/秒)のなかより、水(約1,500m/秒)のなかの方がはるかに速くなります。音速は水温や塩分(塩の溶け込んでいる割合)、また水深により変化します。ちなみに、音速は、1°C水温が上がるとおおよそ4m/秒速く、塩分が0.1パーセント濃くなるとおおよそ1m/秒速くなり、水深が100m深くなると約1.7m/秒速くなります。音の波長は、音速を周波数で割ったものですから、20Hzの音波の波長は、水中(1500/20=75)では長さ75mです。しかし、空気中では17m(340/20
=17)と短くなります。
■クジラなどが海中で出す声を、Webサイトで聞くことができます。
http://www.pmel.noaa.gov/vents/acoustics/whales/bioacoustics.html